それは、東北と日本中を笑顔でつなぐプロジェクト
取材一覧を見る
陸前高田市が直面している『いま』とは
©Natsuki YASUDA / studio AFTERMODE

岩手県の最南端にあり、陸中海岸の広田湾に臨む陸前高田市。1955年(昭和30年)に、3町・5村が合併し、現在に至ります。市の北部と西部は北上高地の山並みが連なり、そこから南に流れる気仙川が矢作川と合流して広田湾に注いでいます。この河川の水流によって運ばれた土砂で形成された砂州が、国指定名勝の高田松原として有名です。

河川流域は、三陸海岸では最大級の平野が広がり、稲作などの農業が盛んに行われ江戸時代には仙台藩の直轄領として商業も栄えました。また、広田湾は豊富な海の幸をもたらし、広田港・長部港を拠点とするマグロ、カツオの巻網漁のほか、広田湾ではワカメ、ノリ、ホヤ、ホタテガイ、カキの養殖が行われていました。

自然資源に恵まれ、気仙大工やうごく七夕などといった独自の伝統文化を培ってきた陸前高田市ですが、東日本大震災による大津波が中心部を壊滅。市全世帯の7割以上が被害を受ける惨事となりました。そして、現在まで復興を阻む問題となっているのが、JR大船渡線や主要道路といったインフラ面のダメージ。これにより、水産加工業や漁港、住宅地や田畑の復旧が遅れ、人口流出の原因となっています。ライフラインの整備を含む新たなまちづくりへの着手が急務ですが、なかなか見通しが立っていないのが現状です。

頻繁に市内を大型車両が行き来する。

頻繁に市内を大型車両が行き来する。

崩落したままの国道。水はけが悪く、周囲は水たまりに。

崩落したままの国道。水はけが悪く、周囲は水たまりに。

難題が山積する同市ですが、2013年3月からJR大船渡線がBRT(バス高速輸送システム)の運行によって仮復旧。一般道の交通状況も改善に向かい、工事車両が盛んに通行できるようになりました。この再建への機運の高まりと同時に、地域のコミュニティを復活させようとする前向きな市民の姿も現れ始めているようです。

陸前高田被災地語り部 くぎこ屋 語り部 釘子 明さん

震災の記憶を、未来へ託すために

自らも陸前高田市内で被災した元ホテルマンの釘子 明さんが、内閣府の復興支援型地域社会雇用創造事業の支援金を元手に被災語り部事業を起業。
震災の経験や被災地の現状をより多くの人々に語り伝え、防災意識の向上を広く発信していくため、2013年3月に設立したのが「くぎこ屋」です。
津波で流出してしまった自宅の跡地にプレハブ造りの事務所を建て、全国から訪れる見学者のためにガイドを行っているほか、震災体験をつづった書籍の発行や防災研究なども現在、計画しているそうです。

特定非営利活動法人 桜ライン311 代表 岡本 翔馬さん

悔しさをバネに、桜並木で伝えていく

陸前高田市内約170kmにわたる津波の到達ラインへ、10mおきに約1万7000本の桜を植樹していく取り組みを行っている「桜ライン311」。
後世の人たちへ、再び東日本大震災時のような大津波の恐れがある時にはその桜並木より上に逃げるよう、避難の目印として伝えていくことが目的です。運営のための資金集めや認知を広めるための講演、植樹イベントの開催などに日々奔走。植樹するだけではなく、手入れや植え替えなどの管理も行いながら、世代を越えてこの活動を継続していくことを目標としているそうです。

うごく七夕 森前組 代表 佐藤 徳政さん

伝統の祭りが、地域の結びつきを再生

気仙地方で行われてきた伝統の夏まつりで、たくさんの七夕飾りによって華麗に飾られた山車が市中を練り歩く「うごく七夕」。陸前高田市高田町と米崎町の12祭組がこの独特な祭りを盛り上げてきましたが、震災の甚大な被害により再興は絶望視されていました。祭組の一つである「森前組」の若き代表、佐藤徳政さんは、慣れ親しんできた祭りを通してコミュニティの再生を目指し、地域住民への呼びかけに尽力。その声に応えた人々の支えによって2011年に祭りは再開、今年もさらに盛大な開催を目指して頑張っています。

悲劇を繰り返さないために学び、語り継いでいく使命。