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三陸鉄道株式会社 代表取締役社長 望月 正彦さん レールの先にある、復興への希望と新たな未来。
高齢者や学生にとって、三陸鉄道は心強い味方だ。

高齢者や学生にとって、三陸鉄道は心強い味方だ。

望月社長の説明

次に向かったのは、三陸鉄道株式会社の本社がある宮古駅。ここで、ロザンのお二人と合流しました。改札を抜けてホームに向かうと、赤・青・白のトリコロールカラーの列車と一緒に望月社長が一行を待ち受けていました。列車を一目見て、「なんか、懐かしい感じやな〜!」とは菅さん。36-200形気動車は、周りの景色やほのぼのとしたホームの雰囲気が相まって、見る者の郷愁を誘います。車内に案内されて足を踏み入れると、ベンチシートとボックス席の間にプロジェクタが設置されていました。一行が席に腰を下ろすと、望月社長の説明が始まりました。

1981年の開業から10年間、黒字経営を守ってきた三陸鉄道。それが時代の流れにより利用者数が減少し、赤字に転じてしまいました。大胆な改革を行ったのは2003年。経営改善計画を練って経営の合理化を図りながら、観光客に特化した企画を数々実施。例えば、南リアス線の小石浜駅を“恋し浜駅”と改称して若いカップル客をターゲットにしたり、列車内にコタツを設置し、なもみ(岩手県沿岸北部に伝わる伝統行事の鬼)の演出を行ったり、オリジナルグッズを企画・販売したりと、ユニークな工夫で大いに話題を呼び、県外からの観光客を集めました。次第に、メディアにも盛んに取り上げられるようになって明るい展望が見えてきた頃、無情にも大震災が日本を襲いました。

中学生記者 武田さん撮影

中学生記者 武田さん撮影

日本全国から多くの応援メッセージが寄せられていた 中学生記者 竹田さん撮影

日本全国から多くの応援メッセージが寄せられていた 中学生記者 竹田さん撮影

望月社長がプロジェクタで映し出したのは、震災直後、がれきが積み重なった線路や崩れた橋脚など、どれも悲惨なものばかりでした。一番被害がひどかったという島越駅と高架橋の写真には、思わず一同から深いため息がもれました。あまりの被害の大きさに「鉄道復旧にこだわらなくてもいいのではないか」という声もあったそうですが、「過去、鉄道がなくなって栄えた町はない」と望月社長は周囲を鼓舞し、地域の足として存続すべきだと奮起。2011年3月12日の朝、自らも現地確認を行い、復旧作業をスタートさせました。早くも3月中に、北リアス線の36.2kmで運転を再開。南リアス線も、2013年から一部再開し、2014年4月に全線復旧する予定となっています。今後は、あまり震災の影響を受けなかった自然の景勝地をアピールしたり、被災地を訪ねて学ぶ体験ツアーを企画したりと、観光の魅力で誘客を図り、駅を中心としたコンパクトな街づくりの構想や、三鉄ブランド商品の販売も考えているそうです。望月社長は、「これまで支えてくれた住民やボランティアの方々への感謝を忘れずに、努力すれば報われるという気持ちで列車を走らせています」と語ります。中学生から、「復旧作業をしている時、社員の方はどんな気持ちでしたか」という質問に、「もうダメだというあきらめの声もありました。でも、運転を再開した時に、お客さんからありがとうと言われたことが励みになったと報告を受け、私もうれしくて元気をもらえました」と望月社長。今後の望みを聞くと、「駅ができても、その付近にまだ家が無い場所がたくさんあります。復興が進んで早く街づくりが進むといいですね」と話してくれました。

列車の連結を間近に見ることができ、中学生記者が思わずカメラを構える

列車の連結を間近に見ることができ、中学生記者が思わずカメラを構える

たくさんの困難を乗り越え、復興に向かうための力を。

被害を減らすのは、住民それぞれの防災の備え。