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陸前高田被災地語り部 くぎこ屋 語り部 釘子 明さん 悲劇を繰り返さないために学び、語り継いでいく使命。

今回の取材では、語り部の方にお話を聞いてから、地元の方々にインタビューを行いました。語り部は、被災地はもちろん、全国の人々にも震災への理解を深めてもらい、自分たちの地元にある避難所や非常時における行政機関のあり方を考えながら、命を大切にする町づくりを提唱している「くぎこ屋」さん。県内外から訪れる見学客を引率して陸前高田市内を巡りながら、震災当時の様子や復興状況など伝える“語り部”事業を主に行っています。

代表を務める釘子 明さんも、かかりつけの病院で喘息の薬を受け取りに行く際に被災。自宅も津波で流されてしまいました。そして、市内に11ヵ所ある避難所のうち10ヵ所が被災し、多くの命が失われたことを知って大きな衝撃を受けたそうです。そんな経験を踏まえ、避難所運営の重要性や減災意識の啓蒙を訴える活動へ積極的に取り組んでいます。今後は、防災マニュアルや復興の歴史を後世に残す事業にも着手していく予定です。

一行を乗せたバスが市街地にさしかかると、車窓の外には、家屋や建物の基礎部分だけを残して雑草が生い茂る空虚な風景が広がっていました。それまでは楽しく談笑していた中学生たちでしたが、町の中心部に近づくにつれて真剣な面差しに変わっていきます。

瓦礫の撤去が進み、草が生い茂る市内

瓦礫の撤去が進み、草が生い茂る市内

この日のスタート地は、国道340号線沿いにある「くぎこ屋」。かつて代表の釘子 明さんの自宅があった場所でしたが、現在はその場所にプレハブ造りの事務所を建てて、語り部ガイドの事業を行っています。

挨拶を済ませた後、釘子さんがバスに乗り込んで陸前高田市内の周遊ガイドに出発。道中、くぎこ屋の活動内容や市内各地の被災状況の説明をしながら向かった先は、白砂青松の景勝地として知られていた「高田松原」。現在その場所は、12.5mの防潮堤と気仙川の水門の工事中で、かつての美しい砂浜ではなくなっていました。「これだけ大きく、莫大な費用をかけて建造している防潮堤でも、東日本大震災時の津波は防ぐことができないんです。私は考えます。人間は、自然には勝てないということを」としみじみ語る釘子さん。高台でバスが止まると、目の前には報道などで大きく取り上げられた“奇跡の一本松”が現れました。すぐそばにあるユースホステルの建物はボロボロで、いかに津波の威力が凄まじかったかを物語っていましたが、それでも凜と立つ一本松の姿を見て、復興を願う市民の切なる願いを見たようでした。

©Natsuki YASUDA / studio AFTERMODE

タピック45の外観

タピック45の外観

次に向かった先は、「道の駅高田松原タピック45」跡地。周囲は、廃墟となった建物がポツンポツンと所々残るのみで、広大な空き地のようになっています。観光情報の案内設備やレストランなどを備えていたタピック45は、外構がかろうじて残っていましたが、内部はその名残を見せるものはまったくありません。また、敷地内には、震災犠牲者のための追悼施設が設置され、釘子さんが説明を行った後、みんなで手を合わせました。

タピック45の屋内は、凄まじい破壊の痕が残る。

タピック45の屋内は、凄まじい破壊の痕が残る。

追悼施設には多くの人々が訪れ、祈りを捧げていた 。 -中学生記者 津田くん撮影

追悼施設には多くの人々が訪れ、祈りを捧げていた 。 -中学生記者 津田くん撮影

町の中心部を巡るなかで、市民体育館のそばも通過。ここは、行政が避難所として指定していた場所の一つでしたが、安全を信じてここに集まった数百人は津波にのまれてしまい、助かったのは3名だけという悲劇の地でもあります。
釘子さんは、「みなさんの町にも、避難所に指定されている場所があると思います。災害は他人事じゃありません。そして、いつやってくるか分からないものです。ですから、その避難所が本当に安全かどうかを、帰ったらぜひ自分たちの目で見て、考えてください」と話し、みな深く頷いていました。

市街地を一望しながら、くぎこ屋さんの話を聞く。 ©Natsuki YASUDA / studio AFTERMODE

市街地を一望しながら、くぎこ屋さんの話を聞く。

最後に訪れたのは、くぎこ屋のほど近くにある高台の民家。ここでは、震災当日の混乱と、避難時に必要な心構えを教えてくれました。どんな状況だったか中学生が聞くと、「まるで、映画の世界のようで、まさに地獄とはこのことだと思いました。ここに避難してきたおばあさんは、津波は戦争よりおっかないと言っていたのが印象的でしたね」と釘子さん。そして、「みなさんにはこうやって今、生きていることが、いかに幸せであるかを考えて欲しい。
そして、災害にあったら各自の判断で避難し、一生懸命生き抜くこと。生きていれば、家族や大切な人とまた再会することができます。
そしてこのお話を、みなさんが帰ったら、たくさんの人に伝えてくれることを望んでいます」と、5人に使命を託しました。

陸前高田市が直面している『いま』とは

桜の花がとこしえに伝承していく、震災の記憶と絆。