バスは福島市の隣、二本松市に入り、安達運動場応急仮設住宅へ向かいました。広大な運動場にはプレハブ造りの仮設住宅がいくつも連なり、今も続いている避難生活の厳しい現実を中学生たちに示します。小雪がちらつくなか、集会所の前で待っていたのは自治会長の瀬賀さん。まずは、瀬賀さんの案内で住宅地内を見学しました。即席で造られた感が拭えないプレハブ構造の簡易住宅。「もっと快適な空間にするため、建て直しをしたりしないんですか?」と中学生記者が問うと、瀬賀さんは「壊れた部分の補修や修理はするけれど、わざわざ建て直しはしないね。いつかここを出ていかなきゃいけないし」と答えました。瀬賀さんの自宅内も特別に見せてもらい、思った以上に居住空間の狭さを実感。「ここの住民は、あまり他人に部屋の中を見せたがらないかな。収納スペースが無いから、物をため込まないようにしているよ」と教えてくれました。
©Natsuki YASUDA / studio AFTERMODE
集会所では、瀬賀さんに取材を実施。震災発生時、避難する時の様子を聞くと、「着の身着のままで家を出て、騒ぎが収まればすぐに帰れると思っていました。防護マスクをしている人を見かけたけど、それがどんな意味を持つのか、その時はまったく分からなかった。町内にある、つしま活性化センターに避難した後、弘前大学の先生が「浪江町にはもう戻れない」と言っていると知り、原発事故が引き起こした事態の深刻さを初めて理解しました」と、当時の状況を語ります。情報源に関しても、「材木を運ぶトラックでラジオを聴いたぐらい。震災の揺れでテレビは壊れたし、新聞も届かなかったんです」と、他の地域よりも困難な状況下にあったことも言及していました。現在はどのようにして浪江町の情報を得ているか聞くと、「町が発行する広報誌が届くので、町政や新しい制度などを知ることができます。年配の人が多いのでインターネットを使いこなせる人が少なく、町の事を知るには広報誌が頼りですね」と話してくれました 。