©Natsuki YASUDA / studio AFTERMODE
晴天に恵まれた3連休の中日、中学生記者たちは釜石市内のホテルからバスに乗り込み、大船渡市を目指しました。同乗してくれたのは、椿の里・大船渡ガイドの会副会長の森 るり子さん。
碁石海岸レストハウスを拠点に、津波体験語り部として市内を案内しています。街道を走行する途中、車窓から三陸海岸の美しい海の景色が目に飛び込み、中学生記者たちは早くもシャッターを切り始めます。森さんは、沿岸のほとんどの地域が、明治の頃より津波の脅威にさらされてきたことに言及。今は穏やかに見える海でも、多くの犠牲を生んできたことを知り、みんなの眼差しは次第に真剣味を帯びるようになりました。吉浜地区に差し掛かると、行方不明者1名を除き多くの住民が危機を免れた「奇跡の集落吉浜」のエピソードを紹介。また、当時、越喜来(おきらい)小学校にいた児童71名が全員無事に近くの高台に避難することができた、押さない・走らない・しゃべらない・戻らないの頭文字を取った避難標語“おはしも”についても詳しく教えてくれました。
バスは一旦、越喜来地区に停車。今、まさにかさ上げ工事が進んでいる湾岸前の空き地に立ち寄りました。
朝日を浴びてキラキラと輝く港を背景に遠く見えるのは、「寄ってがっせん 越喜来へ 皆のふるさと」という看板。素朴なご当地言葉の呼びかけに、地域の復興にかける切なる思いに触れることができました。
次にバスが向かったのは、大船渡港。
港の周囲は、住居の基礎部分や破壊された建物がそのままの状態で残り、中学生記者たちの目に痛々しく映ります。その後バスは個性的なフォルムの展望台が印象的な「サン・アンドレス公園」でストップ。その側に設置された「鎮魂愛の鐘」の前に集まりました。
森さんに促され、奈良県代表の神林くんが鐘を鳴らし、みんなで黙祷。その後、森さんは当時、どれほどの威力で津波が町を襲ったかを説明しました。かつては、大型客船やタンカー船が盛んに行き来していた様子も写真で示し、津波被害が大船渡市にとって甚大な打撃となったことを話してくれました。また、大船渡商工会議所跡も見学。建物の駆体や外壁は無事なように見えますが、2階の窓まで破られて内部はボロボロ。折れ曲がった通風管や剥がれた壁紙などを目の当たりして、中学生記者は言葉を失っていました。
©Natsuki YASUDA / studio AFTERMODE
港を離れ、次に向かったのは高台にある「さいとう製菓株式会社」中井工場。ここでは、同社の元専務であり、一般社団法人 大船渡津波伝承館の館長も務める齊藤賢治さんが出迎えてくれました。
社屋に導かれると、大きなスクリーンのあるホールへ。最初に、齊藤さん本人や地域の人たちが撮影した震災当時の映像を鑑賞しました。齊藤さんをはじめ多くの住民たちは、町の高台へ避難。そこで轟音を立てて建物を飲み込んでいく大津波の様子を目撃しました。映像とともに、「止めてくれ!」と何度も繰り返される悲痛な叫び。「何が(世界一の)防波堤だよ!」という悔しさが混じった声が、中学生記者たちの心に衝撃を与えます。家屋や自動販売機などが、まるでオモチャのように黒い波にのって流されていく無残な光景も、津波の圧倒的な規模と速さを物語っていました。
映像では、膨大な費用と長い年月をかけて津波対策用に造られた大船渡湾口防波堤についても説明。完成から約40年間、大船渡市を津波や波浪から守り続けてきましたが、東日本大震災の津波はそれを遙かに上回ってしまう結果となりました。
また、岩手日報2012年3月13日朝刊に掲載された、津波に巻き込まれた状況や場所に関するアンケート調査も投影。「逃げなかった」という回答が40%もあり、その主な理由として、自分が住んでいる地域で過去に津波が来なかったから、堤防を越えないと思ったなどが挙げられ、災害に対する正しい判断と防災意識を持つ難しさが分かりました。さらに、映像の中で、すぐ傍まで津波が迫りながらも、まったく焦った様子が無い人を指差しながら、「異常事態が起こっても、平静さを保とうとする心の働き“正常性バイアス”の状態になっているのだと思われます。映像をよく見ると、こういった人が結構見つかりました。この後、どうなったかは…」と齊藤さんは語尾を濁してしまいました。
齊藤さんが体験した震災後の生活で苦労した点や、現在実践している地震の揺れ対策を紹介してくれました。その後、「津波到達の速さは、オリンピックメダリストのウサイン・ボルト選手に優ります。皆さんが走って逃げるなんて絶対に不可能なんです。だから、警報が鳴ったらなるべく高い場所に逃げて、決して自宅に戻ろうなんて思わないでください」と、真剣な眼差しで中学生記者たちに語りかけていました。