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気仙沼市内〜海の市/シャークミュージアム 一人でも多くの命を救うための防災対策と、速やかな避難。

秋晴れの清々しい休日、中学生記者たちを乗せたバスが気仙沼漁港に向けて出発しました。同乗したのは、気仙沼観光コンベンション協会の震災復興語り部、垣下美紀さん。震災直後、この地に何が起きたのかを話しながら、津波の猛威が襲った松崎片浜から沿岸を走りました。そして、気仙沼港の近くで下車し、かつて商店街で賑わった南町地区へ。途中、垣下さんは、津波から逃れるために駆け上がったという浜見山の坂道や地元で名物だったいう洋品店、大学生ボランティア達が協力して造った慰霊のモニュメントなど、様々なエピソードを紹介。そして、ビルの壁面5.8mの高さに掲げられた赤い看板を指差しながら、「あんな高さまで波が押し寄せるとは想像もできませんでした」と振り返ります。中学生記者たちは、崩れた建物や土台だけの荒れ地という殺風景に言葉を無くしながらも、復興仮設商店街「南町紫市場」を見学。再び港に戻る頃にはみな、津波の恐ろしさを痛感していました。

崩れた建物や土台だけの荒れ地という殺風景
復興仮設商店街「南町紫市場」を見学
近代的な外観デザインに生まれ変わった「気仙沼 海の市/シャークミュージアム」

近代的な外観デザインに生まれ変わった「気仙沼 海の市/シャークミュージアム」

近代的な外観デザインに生まれ変わった「気仙沼 海の市/シャークミュージアム」では、気仙沼観光コンベンション協会の橋本茂善さんと、気仙沼市危機管理課の高橋義宏さんが一行の到着を待っていました。

まずは、橋本さんからスライドの投影とともに、気仙沼市の簡単な紹介がありました。そしてスライドが切り替わり、2011年3月11日当時の気仙沼市の風景が。最大20mに及ぶ大津波が街を襲って多大な被害を生み出し、大きな揺れは地盤沈下を引き起こしました。実際の景色を目の当たりにした中学生記者たちは、生々しい実感を得ながら、真剣な眼差しで橋本さんの話に耳を傾けます。被災した多くの市民は、ライフラインがストップした不便だらけの避難所暮らしを強いられました。それでも、国内外の支援を受けながら、水産業と暮らしの立て直しを目指しています。橋本さんは、「気仙沼の人たちはこれまで、海から大きな恩恵を受けて生きてきました。だから、海を恨まず、海と共生してこれからも頑張っていこうと前を向いています」と締めくくりました。

高橋さんからは、気仙沼市が準備を進めている今後の防災対策について語っていただきました

高橋さんからは、気仙沼市が準備を進めている今後の防災対策について語っていただきました。復興の目標に、早期の産業復活と雇用の確保、地域に笑顔あふれるまちづくりなどを掲げ、防災施設の充実や防災の観点による市街地の再建、防災体制の充実を挙げ、様々な施策を紹介。例えば、災害情報把握伝達システムは、発信元を一元化して防災行政無線メールやエリアメール、SNSなどに一斉送信する仕組みを構築し、迅速な避難を促します。防災無線が備わっている場所にはソーラーパネルを設置し、電力の供給が無くなっても電波が受信できるシステムも導入。これも震災の経験が活かされた一例です。また、これまで慣習的に行われていた避難訓練を、“見せる訓練”から“考え実践する訓練”に考え方をシフト。

他にも、防災マップの作成や備蓄の見直しなど、震災の反省がいたるところに活かされています。四国から来た中学生記者から、「報道などで、南海トラフ巨大地震が30年以内に60〜70%の確率で発生するといわれていますが、もし震災が起きたら中学生の私たちはどう行動すべきだと思いますか」という質問を投げかけました。

橋本さんは、「この震災では多くの命が失われ、生き残った人の中には自分だけが助かっていいのか?と自らを責めた人もいました。でも、大切なのは、まず自分の命を守ること。このあたりの地域では、“津波てんでんこ”の教えが息づいています。自分の命を守ることは、家族の幸せにつながります。皆さんには、もし大災害に遭ったら、自分の命が助かる選択をして欲しいです」と答えてくれました。

気仙沼市が直面している『いま』とは

地域住民の生命線となる道路をつなぐ、復興工事の重要性。