鵜住居(うのすまい)地区防災センターがあった場所
最後の取材先は、かつて鵜住居(うのすまい)地区防災センターがあった場所。現在は解体され、プレハブの建物と追悼施設があるのみです。インタビューを受けてくれたのは、この防災センターで奥様を亡くしたという被災者遺族の連絡会、三浦会長。一行は、追悼施設で祈りを捧げた後、当時、どんな現状だったのか詳しく話を聞きました。「実は、この施設は防災センターという名前が付いていますが“拠点避難所”として建てられたもので、津波の場合は高台などの“一次避難場”に逃げるべきだったんです」と、パソコンに映し出された震災前の建物を指差しながら驚くべき事実を教えてくれました。「住民の方は、間違った思い込みをしていたということですか!?」と、思わず声を荒げる宇治原さん。「釜石市が間違った情報を教えていたわけではありませんが、情報伝達不足であったと思います」と答えます。別のビルの上から撮影された、津波を受けた直後のパノラマ写真も見せてくれましたが、建物はもちろん、街全体が水没したことが分かる凄惨な様子でした。「しかも、市が主催する避難訓練は、朝の6時に行われていました。通勤時間の渋滞を避けるためとはいえ、こんな早い時間ですから参加者は少なく、訓練の意味は薄かったと思います。震災前の3月3日も訓練を実施していたんですけどね…」と、悔しさを滲ませます。結果、防災センターに避難した200を超える人たちが犠牲となる悲劇になりました。
当時の様子をもとに、話を聞く
中学生記者から、市に望むことは何かと問われ、「避難を確実にできる情報発信をして欲しいですね。あの時は、揺れの20〜30分後に津波がきたので、その時間があれば高台に逃げられたはずです。的確な避難誘導を行うことが肝心だと思います」と答えてくれました。また、今、一番大事にしたいものは何かを聞くと、長い沈黙の後、「…命かな。…そして“偲い(おもい)”です。女房のこともそうですが、亡くなった人のことを決して忘れない気持ち。以前、静岡から来たボランティアの方々と一緒に、防災センター跡で追悼の意味を込めてロウソクの火を点したんですが、その時掲げた言葉が“偲い”でした」と、時折、言葉を噛みしめるように話す三浦さん。園芸が趣味だった奥様のために、新しく建てる家の庭で、一番好きだったというキキョウの花を植えたいとも。今もなお癒えることのない深い悲しみにありながらも、残された者として釜石の安全な暮らしを実現しようと前を向く三浦さんの姿に、一同は感銘を受けていました。