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株式会社ヤマウチ 代表取締役社長 山内 正文さん 南三陸町産業振興課 宮川 舞さん 商店街を再興する熱意で、人が行き交う元気な町に。
南三陸さんさん商店街

次の取材先は、志津川地区の復興仮設商店街「南三陸さんさん商店街」。ここで、ロザンのお二人も合流して、取材を行いました。一行を待っていたのは、商店街で鮮魚店営む山内正文社長と南三陸町産業振興課の宮川舞さん。まずは、震災に関する展示やワークショップなどを行っている「南三陸ポータルセンター」で、震災時と現状の説明がありました。

鮮魚の小売りと水産加工品の製造・販売を行っている株式会社ヤマウチ。4ヵ所にあった営業所はすべて津波に流されてしまい、現在は仮設商店街の店舗を拠点に営業しています。震災当日、山内社長は中学校のある高台に避難していましたが、ほんの12、3分の出来事に、ただ呆然と眺めるばかりだったそうです。やむなく緊急避難場所となった中学校に身を寄せていた山内社長。同じく避難所にいた商店街の仲間たちと、「何としてでも、この南三陸町で商売を続けていきたい」という強い気持ちが高まり、全国ぼうさい朝市ネットワークなどの助力を得て、震災のあった年の4月29日・30日に第一回目の「福興祭」を志津川中学校の校庭で開催しました。このネーミングには、町民みんなが幸福を興せるように、という切なる願いが込められています。被災して現金を持っている人が少なかったので、1万人の町民に100円券3枚を配布。志津川名物のマダコにちなみ、100円=100タコという地域通貨で、買い物の楽しさを来場者に満喫してもらいました。すかさずロザン菅さんは、「それはタコ以外も買ってもいいんですか?」と質問して会場は爆笑に。この時の参加店舗は19店で、町外参加は1店舗のみ。町民に対して、地元で商売をするぞという、強い意思表示をしたイベントになりました。山内社長は、久しぶりに買い物をして喜んでいる人たちを見て、「これは1回だけでは終わらせられないぞ」と思ったそうです。それから毎月開催し、2013年11月24日の「志津川湾さけまつり福興市」で29回目を数えます。

真っ直ぐ中学生たちを見据えて語りかける姿が印象的でした

復興市の売り上げは回を重ねるごとに増え、その期待感と自信が復興仮設商店街「南三陸さんさん商店街」の設立に結びつきました。山内社長自身も、店舗営業だけでなくインターネットを活用して全国に販路を拡大。「今に至るまで各地からたくさんの支援をいただき、本当にありがたいと思っています。その応援に応えてより一層、商店街を盛り上げていきたいと思っています」と、真っ直ぐ中学生たちを見据えて語りかける姿が印象的でした。

宮川さんは、「南三陸まなび旅」と題し、南三陸町の概要と被災の状況を教えてくれました。以前は、風光明媚なリアス式海岸の海岸線があり、豊富な海の幸にも恵まれていた南三陸町。この震災で、町の62%が被災し、約3,300万戸の家屋が失われました。それほど甚大な被害だったためライフラインの復旧も遅れ、電気は2011年5月末、水道の完全復旧が2011年8月中旬と、不便な状況が長く続きました。そして、46ヵ所の避難所に9,746人の町民が10月まで滞在。仮設住宅数は約2,200世帯(みなし仮設1,300世帯)を数えます。未曾有の苦難のなかでも、自衛隊の尽力で交通の要所に橋が架けられたり、世界中から8万人以上のボランティアが訪れたりと、人的支援が大きな支えになったそうです。それでもなかなか復興が進まない現状が目の前に立ちはだかっています。特に最近では、人口流出が大きな悩みとなっていますが、復興市や南三陸さんさん商店街を足がかりに、商業・水産業をさらに発展させて、住みやすい町作りを目指しているそうです。「ただ、人を呼び込むだけに止まらず、みなさんのような次世代を担う人たちの関心を集め、この町の人たちと交流できる機会を増やしていくことで、復興へより近づけられればと願っています」と、宮川さんは語ってくれました。

友好の証、モアイ像

友好の証、モアイ像

宮川さんの案内で、南三陸さんさん商店街へ。敷地内へ足を踏み入れようとしたその時、ゲート前で並々ならぬ存在感を発している、チリ・イースター島から贈られたモアイ像に、みんな釘付けになってしまいました。「これ本物?」「何で目があるの!?」と、ざわめく中学生たち。かつて1991年に、チリ地震津波の復興と友好の証としてモアイ像が贈られましたが津波で流出。あらためて2013年5月25日に贈られたのが、この商店街の“本物のモアイ像”です。初めは驚いていたようですが、喜んで記念写真を撮り合っていました。

訪れた日が日曜日だったこともあり、商店街は大盛況。山内社長の店舗をはじめ、地元の事業者30店が軒を連ね、どの店も活気にあふれていました。その中心にはフードコートが設置され、一行はここでランチタイムを満喫。町内11の飲食店が参画する南三陸町の名物グルメ「南三陸キラキラ丼」を味わいました。シーズンごとに具材が変わり、冬は見た目にもゴージャスな「いくら丼」。一粒一粒が宝石のように輝くイクラに魅了されながら、みんな大満足の様子でした。

町内11の飲食店が参画する南三陸町の名物グルメ「南三陸キラキラ丼」を味わいました。

商店街を後にして、バスに乗って向かった先が、この町を語る上で欠かせない「南三陸町防災対策庁舎」。骨組みだけとなった異様な姿が、津波の凄まじさを感じさせます。3階建て12mもの高さがあるにも関わらず、津波はそれを超える14m。庁舎に務めていた職員はもちろんのこと、多くの住民の命も奪いました。入り口前には祭壇が置かれ、線香や花が供えられています。誰に促されることでもなく、手を合わせる中学生たち。ロザンのお二人も沈痛な面持ちで、いつまでも建物を眺め続けていました。

南三陸町防災庁舎

震災を糧に、より品質の高い生産の取り組みへ。

南三陸町の経済を支える、生命のサイクル。